2015年8月31日月曜日

影舞 縁坐舞台 後記

先日、等覚院で行われた「越境ノ舞」~影舞・縁坐舞台~
お越し下さいました皆様、橋本さん、元ちゃん、エレックくん、等覚院さん
ありがとうございました。

この日は、朝から等覚院へ向かいセッティングを終え
久しぶりの等覚院を満喫。

影舞ってなんだろう?から始まったこの日。
橋本さんの案内を軸に参加者と色々なワークを行い
心と場に触れていく様な時間。
橋本さんの言葉を借りれば、景色を体感していく。

音楽と長く携わっていくうちに
あらためてそれについて、考察する事が少なくなっていたかもしれない事。
そんな「場」というものを再度考える機会だった様に思う。

音楽的に「場」というものを提示したのは、
ジョン・ケージの4分33秒だったりが有名だとは思うけど。



でもまあ、これってその当時だから
センセーショナルだったんだと思うのですよ。
今やっても、面白くも何ともない訳で。

話が逸れましたが、
音楽というものは、もうそれが音楽である時点で、
「場」というものに支配されるし、それと同時に「場」を支配し得るもの。
空間と時間の芸術である音楽というものが
そういった根本的な基礎認識を提示する必要は今更ないと思っている。

影舞が面白いと思ったのは、
そんな「場」というものを音楽的尺度で観てきた自分にとって
音楽を介さずに参加者と目に見えないけど、確かにそこにある「場」
というものを共通認識できた実感が生まれた事。

その後、その認識を元に行われた縁坐舞台というやつは
相手の言葉を敢えて言い換えれば、要するに影舞の即興パフォーマンスなので
舞台上の参加者は、貴重な体験かもしれないが、
ただ観ていた第3者にとっては面白くはなかったという意見が目立った様に思った。

影舞の良さは、技術も経験も関係ない、そこにいる全ての人に
共有出来る「場」というものの体感にあると思うが、
縁坐舞台に関しては、当然、踊りと音楽の専門家がやった方が
圧倒的にいい「場」が生まれるはず。
音楽家やダンサーは、それをやる為に多くの時間を費やしているのだから
当たり前の事だが。

久しぶりに
理屈じゃないものを理解する為の理屈や
矛盾を矛盾として矛盾無く受け入れていくこと
という10年前に思った考えが脳裏に浮かんだ。

この日この「場」を体感したことで
改めて、自分が芸術というものに求めるものは
言葉にも出来ない程とにかく圧倒的な何かなんだろうなと思った。


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