2016年4月9日土曜日

臨書




たまたま、開いた書道家さんのブログに以下の言葉があった。

「書道の世界では臨書という基本練習があります。優れた古典を観て、ただ形を追体験するのではなく、書き手の気持ちや生き様、時代背景、コンテクストまて観る練習」

音楽と書道は似ていると思っています。
どの字(曲)を書くのか、その時その瞬間の心のあり方がそのまま字として
そこに現される。
演奏と全く同じです。

書道で言うところの臨書は、
まさに楽器の練習でしょうか。

技術面の鍛錬の意味合いももちろんありますが、
なぜそのフレーズなのか、間や音の強弱はなぜそうなっているのか。
その音の奥に浮かび上がる奏者のそのまたもっと奥の音楽そのものから
にじみ出る音そのものの存在
水が湧き出て河を作り海まで流れていくような
自然とそこに景色が浮かび上がる音の流れを
その自然な成り行きに耳をすませ、全細胞でその音の意識と一体化すること
そのために細胞一つ一つの純度を音を純粋に受け止められるまで
高めていく行為がいわゆる楽器の練習ってやつです。

身体的に指の鍛錬とかそういうのももちろん含めてですが、
上記したような精神面の基本がないと、音の色彩が出ないので
コンピューターミュージックと変わらなくなります。
それだとミスらない分、コンピューターの方が優れてます。
コンピューターでも音楽を表現できる現代、
人間が人間でないと表現できない芸術的な本質は
まさに、最初の書道家さんの言葉
気持ちや生き様、時代背景、コンテクストの部分と
その奥に内在する音そのものの本質に触れて、それ自体と同質になっていく
まあ、無我の境地っていったらあれなんですが、そんな感じ。

真面目に書き切ると恥ずかしい文章になりそうなんで、
締めはゆるっと。

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